Stay Home というシンプルなメッセージは、明日を見つめるいい機会


僕はがんになってからしばらく、
もっとあの時こうしておけば良かったと、
これまでの行動や思考を振り返り、
後悔していた時期もあった。

無理もない。
余命宣告は僕の心をいつもザワつかせ、
なぜ自分なんだ、どうすればいいのかと
不安で、
もっと生きたいのに
あまりに悔しくて、
足をバタつかせる
子供のように地団駄を踏んでいた。

その度、心の中は泥水のように濁り、
未来へ繋がるはずの光さえ曇らせていた。

増加する感染者によるオーバーシュート、
重傷者を救命するための施設や資源不足による医療崩壊、
休業を余儀なくされ見通しの見えない未来、都市機能停止による経済崩壊、
そして、野暮な政治家への怒りや批判。

現実、感染拡大が収まるには、
人類の
70%が抗体を持つ(集団免疫)必要があり、それまでには、だいぶ時間がかかるというのに、新型コロナウイルスの心配や不安、政府へ怒りや憤りが日々つのり、
日本中いや世界中、
泥水の中でもがき必死になっている。

自分が「無症状の感染者だ」と思って
行動することが大切な今、
命には変えられないと他人の命を
自分の大切な命と同じように思い、
苦肉の策で休業する大好きな店もある一方、研修医が飲み会に参加して、感染を拡大させ議員がセクキャバで欲を満たすといった
センセーショナルなニュースを見聞きしてもなお、「なぜ家にいなければならないのか」とボヤきながら、ポンコツたちが未だ地方へ遊びにいくという。

どこまで能天気なのか、
当事者になってはじめて、助からない命に
気づき、
後悔しても振り返りようがないというのに、いつまでも他人事。

だからこそ、
「自分の身を守り、医療を守るためにも、家にいて」という

シンプルなメッセージstay homeを
繰り返すことが大切だと思う。

そのメッセージが自分のいちばん深い場所で響けば、この先もっと生きやすくなるいい機会だからだ。

あの時、癌になってなければ、
生き急いでいた僕は、立ち止まることなく、自分を見つめ直す時間もなく、
死んでいたかもしれない。

だから僕には、
「家でゆっくり休みなよ」と聞こえる。

余命宣告に対する不安という泥水は、
心を静かに保つことで、
心の中に舞い上がった泥を
沈めることができた感覚と似ているからだ。

それは、僕の視界を曇らせていた泥は沈み、どこまでも透き通る海ように、
やるべきことが見えた瞬間だった。

インドの「ジャーナ」という
古い言葉がある。
その当時学んだ言葉のひとつだ。

「ジャーナ」とは、
「心を静かに保つ」ということで、
座禅の禅もここから派生したと
言われている。

茶色の泥水の状態は、
日々忙しく生活する様子や
不平不満不安に置き換えられる。
昨今、メディテーションや写経といった
心を鎮めることが人気なのも納得する。

座禅を組まなくても、僕たちは今この状況で
「心を静かに保つ時間」、つまり
半ば強制的かもしれないが
stay homeすることで、これまで見えなかった景色もまた見えてきているはずだと思う。

家にいる時間が長くなり、
家族や恋人、仲間や友人、
あらゆる人との関係性が再構築されている。

いつも働きづめのビジネスマンは
チャンスととらえ、
夫婦ゆっくり
話し合う時間や子供と遊ぶ時間、
離れて暮らす親との会話。

大切な目の前の人と
何が人生にとって大切なのか
ゆっくり家の中で過ごす中で
心を静かに、自分と向き合う時間を
持つことができるstay home は、
とても意味のある価値ある時間だからだ。

もしかしたら、生き急ぐ僕たちに対する
「少し休んだほうがいいよ」という
メッセージなのかもしれない。

欲張りすぎた資本主義による、
オーストラリアや南米アマゾンの山火事は、
地球が患ったコロナ肺炎の症状のようにも
思うと悲しくもなる。

いつも未来は目の前からやって来るからこそ不確定であり、常に変化する。

何か問題が起こった時、
もっと「あのとき、こうすべきだった」と
過去を振り返っても仕方ない。
反省することはあっても後悔しても仕方ない。だからこそ
最大限、
今にフォーカスすることが大切に思う。

「昨日から学び、今日に生き、明日を見つめよう」ってスヌーピーも言ってたから間違いない。

大切なのは、これまでの反省点を生かして、これからどう生きていくべきか
一人ひとりの自覚と未来への想像力だと
信じている。

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